スマホ入力する気力が萎
前記事、裏自慢がぎゅぎゅっと詰まっていると感じられた方もいることだろう。
別に自慢したい気持ちはないのだが、悩みの中身がムカつかれる可能性、大。
もっと深刻な悩みなら感情移入していただけるかも知れないが。
けしからんことに、わたしは深刻な悩みはブログには書かない。
書いて未公開にすることも選択肢としてはあるが、書きながら未公開を頭の片隅に感じると、ちまちまスマホ入力する気力が萎える。
そもそも、たいした悩みはない。
病、貧困、戦争、災害、、、それらは、避けられない苦痛、不幸であり、絶望の淵に立つ。
自分ではどうすることも出来ない、逃げられない人間関係もそうだ。
それ以外は、命を脅かすほどのものではないかと想像するが、そんなことはなく、現代人のこころは、デリケートだ。
食べることが出来ても、絶望感に襲われることはあるようだ。
命さえあればどうにか(文字通り)生きられると考えるが、それはわたしが楽天家だからだろう。
希望がないと、人は生きられない。
もし、わたしがガラスのハートを持っていれば、現在のわたしはない。
タフといえば聞こえは良いが、無神経なわたしは、痛みに鈍感なのだろう。
だが家の食卓の隣で孫が、お皿を引っかけて料理の煮汁をこぼして、母親にものすごくキツく怒られていると、わたしはとてもキリキリこころが痛む。
彼はわざとしたわけではない。
注意力散漫ではあるが。椅子にちゃんと座らない癖はあるが。
しこたま叱られ、小2男児孫が泣くかと思いきや、平気な顔。
平常心。
わたしだけが痛く傷付いている。
「よくあんなに怒られても泣かないんやね」とわたしが感想をその場で漏らすと、すかさず3番目孫(5歳女児)が、「泣きそうな顔してたけどね」と言う。
叱責されている間、周りは何も言わずにフォローせず、しーーんとしていた。
なんと氷のように冷たい空気。助け舟なし。
怖い空気。
子供よりわたしが堪えるのは、わたし自身がよく失敗したり粗相したりするのは見えているため、自分が責められているような気になるのだろう。
5歳孫とわたしは、ほぼ同じ能力だと感じる場面に度々出会す。
苦笑。
発展途上、未発達の5歳と、スローダウン衰退途上のわたし。
これから先が上下に分かれて違うが、今はクロスしている交差点。
まだわたしには余裕はあるが、孫たちに対してそのうち暖かい目から、頼りにする目に移行していくことだろう。
5歳児も、わたしがだんだん衰えてくることがわかると、自然から学ぶ人間観察が出来て、ものごとの仕組みや成り立ちがわかって悪くない。
発芽し、若葉になり、青々茂り、やがて枯れていく。
そういうものである。自然の流れ、摂理。
人間の誕生、成長、衰え、終焉は、身近で見る生きた教え、見本。
と学校に提出するのを渋るかも知れ
台風直撃らしく、電車もストップ、デパート、スーパーも休業。
ずっとテレビで台風ニュースをかじりついて見ていた。
それはそうと。
昨夜のNHK TV番組「ファミリーヒストリー」。
草刈正雄。
大泣きしてしまった。
「死んでいる」と母に聞かされていた実父が、じつは生きていた牙齒美白。(後に高齢で他界)
番組MCの今田が、「どんなお気持ちですか?」と野暮そのものに聞く。
複雑な顔で、言葉がないと言う草刈正雄。
涙が溢れる。
いやはや。
ずーーっとわたしは涙が流れっぱなしだった。
ずーーっと、ずーーっと。
お母さんの強さにこころ打たれた。
草刈正雄はわたしの兄と同じ歳なので、お母さんはわたしの母世代。
戦中派は強いと、しみじみ実感した。
籍の入らない、父不在の子供を自力で自活して育てる逞しさ。
アタマが下がる。本当に。
わたしなんかは、つくづくダメな甘い人間だと思った。
お母さんは赤ん坊の子供(草刈正雄)を抱いて電車に飛び込もうと何度も思ったが、無邪気な子供の動作に思いとどまった、と。
今、これを書いていても涙が流れる。
いくつも仕事を掛け持ちして、苦しい家計ながら一生懸命、子供を育てる立派さ、健気さ。母は強し。
牛乳配達や新聞配達のアルバイトをして家計を助けようとした草刈正雄も、素晴らしい。
しかし、お母さんは子育てには躾は厳しかったようだ。
草刈正雄もあんなに甘いマスクで、ルックスの良さだけでなく、よくぞ年齢を重ねても人気を保つだけの仕事をしたものだと感心する。
才能、努力、運。
お母さんの芯の強さも受け継いでいたのだろう。
いやはや、、、ただただ感服。
ふらりふらり「寄らば大樹の陰」スタンスの自分自身の甘さが恥ずかしくなるほどだ。
ちなみに、話はころっと変わるが。
台風ニュースを見ながら、雑巾をたくさん縫った。
孫たちの小学校に提出する分。
長女に8月中旬までに、と前から頼まれていた去眼紋。
雑巾にする古いタオルは、夫の実家から一昨日、持ち帰ってきた。
姑が老人施設で使っていたタオル。
使い古してボロボロ具合が、雑巾にピッタリ。
前々から雑巾用に使おうと目を付けていた。
タオルには太いマジックインキで名前が書かれている。
別の人の名前が書かれたタオルも混じっていた。
同じフロアに入居していた人の名前と思われる。
名前が外から見えないように、中表にして縫った。
今は、わざわざ縫わなくても、100円で雑巾が売られている。
買った商品なら学校に提出するのには、キレイでカンタン、便利で、恥ずかしくない雑巾だ。
が、いかにも下手な手縫い、チクチク。
小中学の家庭科の授業でやった運針の練習を思い出した。
とは言え、孫や長女が、こんな雑巾、嫌だ、恥ずかしい、と学校に提出するのを渋るかも知れない。
綿の糸、たっぷり使ったが、糸だって安くない。
時間と労力と高い糸を使い、不細工なカッコ悪い雑巾を一生懸命、縫う。
手先が不器用。
兵隊さん、戦地で頑張って下さいという祈りを込めた千人針に近い気持ち。
(もちろん、そんな日が将来、絶対に来てはいけない)
孫たち、小学校で頑張ってね!
遠くから応援しているからね。
ではあるが、こんな雑巾、やっぱり敬遠されるかも?
キレイな新品のタオルで、ミシンがけした雑巾が、優等生雑巾だろう。
だが、誰がどの雑巾を持って来て提出したか、わからないだろうから、あれで良い。
毎年、提出する使い捨てなのだから。
と言い訳を考えてしまうほど、不細工な雑巾が出来上がったmyob 課程。
きっていないのかも知れ
旅先、那覇に小さな劇場があった。文化拠点のテイスト。映画館のようだ。
(じつは、歩いていて途中、トイレをこっそりお借りした)
あんな感じの活動に使うのも良いと思うが、やはり人それぞれ、好みがあるかHIFU。
場所は、隣(裏?)が外国大資本?超有名ホテル(ハイアットリージェンシー)だったが、わりと古ぼけていた。
(が、今、調べてみると2015年施工だった。びっくり。中はピカピカなのかも知れないが)
不思議な気がした。
ではあるものの、沖縄ならではの独特カラーなのかも知れない。
あんまりどこも、尖(とんが)っていなくて懐かしい穏やかさがあった。
美しい海、青い空、それで充分だけど。
コロナ禍の後、一度減らした人材(スタッフ)が観光業の端々にまで戻りきっていないのかも知れない。
と、話がまたまた逸れている。
お金回りが良くなった人の贅沢な日中の過ごし方をシュミレーションしていたのだった。
お日様が上がっている時間。
夜から明け方までどんちゃん騒ぎした後は、日中は、微睡(まどろ)んでいるのか。
豪華ホテルのプールでカクテル???
感性が古いか?(ずっぽり昭和人間なもんで)
もっと令和風なイマジネーションが湧けばよいが、、、湧かない。
観た映画でアタマに残っている映像が古い。
時代遅れ感あり755 脫毛。
いくら最新の映画を観ても、アタマの中に張り付いているのは時代遅れのもの。
困ったものだ。
しかし、
タワマンに住んで、お酒や美女イケメン以外に、アクティブにいかにもお金がかかっている憧れの行動って何?
犯罪を犯してまでして手に入れた大金なら、どんなことをすると気が晴れて大きなリスクとのバランスが取れるのだろう。
昭和人間で、すでにリタイアしているわたしには想像出来ない。
桁違いの小さなことなら想像出来るけれど、その想像は犯罪まで犯さなくても普通に真面目にしていたら自由に出来る程度のお金だ。
もうわたしは枯れかかっているので、あまり生臭い欲望がないため、想像力も枯渇状態。
ないものを無理やり頑張って想像するのにはかなりシンドイ。
こんなパワーのない話、読んでも全く面白くもなんともない。
またまたメンタル強く、恐れずアップします去暗瘡印。
供の頃を思い出すな
わたしが(勝手に)師と仰ぐ、FIREブロガーさん。
坐禅の修行に行かれた。
その報告記事がめちゃくちゃ面白い。
ブハッ、ワッハッハと、声をあげて笑っている。
自宅で読んでいて良かった。
自宅以外なら、よくいる変な独り言シニア。
一人笑い。
坐禅中には、雑念をもってはいけない。
例えば、ウグイスの鳴き声が聞こえても、「ウグイスの鳴き声がする」だけしか思ってはいけない乳癌篩查計劃。
今日は2羽かな、だとか、声の大きい小さい、だとか、もうそんな季節か、だとか、音楽のようだ、とか、子供の頃を思い出すなあ、だとか、そんなことは一切思ってはいけない。
最初の客観的状況の認知のみ。
早く終わらないかな、とか、晩御飯は何かな、などとは、もってのほか。
隣の人の鼻の鳴る音が気になってしかたなかった、と、FIREブロガーさん。
初日だから、仕方ない。
いーち、にー、と、無心で数を数えるのだそうだ。
わたしなら間違いなく寝落ちしている。
目をつぶったまま寝ている。
はっと起きたり、また寝たり。
自分ではコントロールできない。
ではあるが、はい、終了です、の合図には反応することだろう。(そうありたい)
終わりなのにいつまでま座っている場合は、足が痺れて動けないか、熟睡しているか。
ひょっとして、熟睡している可能性はある。
わたしのことだ。
なんでもあり得るCT scan。
このFIREブロガーさん、お笑い系作家になれる。
真面目に書いているのか、狙っているのか、絶妙なユーモアセンスは、抱腹絶倒。
超真面目な人の超真面目ぶりは、笑いに通じる。
不真面目な、おちゃらけな人より、ずっとずっと面白い。
前職は、すごく真面目で難しいお仕事をされていた。
まだ50代とお若いため、頭が柔軟。
目の前に繰り広げられるおかしな様子も、一生懸命考えを巡らせて、ああでもない、こうでもないと仮説を立てて理解しようとする。
勉強や特殊な分野は得意でも、肉体労務作業(掃除や草刈り)はやった経験がなく自信がなくても、「効率や結果を求められているのではなく、自分が精一杯頑張る、取り組むことに意義があります」と説明されると、俄然やる気が出るあたり、なかなか前向きな明るい人だ。
今更そんなことが出来るか!というのではなく、謙虚な姿勢は気持ちが良い。
なにしろ瑞々しくて年齢性別を超えて、面白い。
いくつになっても未知のことへ挑戦したり、深掘りしたりするのは、新鮮で、発見がある。
明日も坐禅道場の報告記事を楽しみにしている助聽器 平。
接近していれば理想だ
自分の自由時間をいかに使うか。
楽しく、有意義なら理想的。
仕事がハードで、ただただ心身を休めるだけの人もいる。
退屈で、やることがない人もいる。
年齢、状況によって異なる。
やりたいことがあるのに各々の事情で出来ない人もいる。
やりたいことを先送りして、とりあえず今しなければならないことをするしかない。
それが先の、将来の、やりたいことのためなら我慢も出来るだろう活動牙托。
だが、今だけを生き繋ぐためなら虚しいと想像する。
やはり、明るい希望や未来に繋がらなければ絶望する。
ちなみに、わたしはヒマしている。
これは退屈とも取れるが、やるべきことをするために力を蓄えている、と、プラス思考の自己解釈。
人生には待ち時間が長い。
やるべきことは、ほんの一瞬。
そのために計画、準備したり努力したりする。
その、やるべきことこそ、「希望」や「使命」なんだろう。
やるべきことと、やりたいことが一致するのは不可能だとしても、接近していれば理想だ。
今、わたしは、長年、抱えていた塩漬け問題に少し動きが出ている。
胎動、予兆の時期は過ぎ、動き出している。
話は変わる。
「おひさま」(井上真央 主演)という、2011年、NHK朝ドラがあった。
同時、わたしは一生懸命朝ドラを観ていた。
「ゲゲゲの女房」「カーネーション」「梅ちゃん先生」「純と愛」だとか脫面毛。
そういう時期があったのだが、一度見始めるとずっと続けて見なければならなくなり、時間拘束、精神的束縛が窮屈になってやめた。
あの頃は若かった。
パリ一人旅を実現させた頃だった。
自分史において(大袈裟)、一つの転換期だったようだ。
相変わらず話は逸れている。
そのドラマ「おひさま」のストーリーでヒロインが、今までイメージだけで薄ぼんやりしていて、はっきり具体的な中身がつかめなかったが、ある程度固まり凝縮されて、徐々に形になっていった、「やりたかったこと」が最後に実現できて、それでドラマは終了した。
蕎麦を栽培して蕎麦店を経営するのだけれど。
ドラマ展開としては、お蕎麦屋さんに向けて頑張るのではなく、最後の最後に、ドラマ作家が流れでそういう筋書き展開にした、というような印象だった。
書いているうちに、筆が導いたパターンだとわたしは感じた。
最初にラストを考えて、そこから物語を作っていくパターンもあるが、そういうハッキリしたものはあまり感じなかった。
ラストに来る夢実現の具体的中身はなんでもよかったような気がした。
作者は書きながら考えたのではなかろうか下顎線。
てはやされていると感
仏教系の色合いのある教えは、わりとすんなりこころに響く。
先入観からではない。
おそらく知らないうちに自然に、身に入っていたのだろう。
仏教は、何もしてくれない。
なぜなら、そのまま、ありのままを受け入れるわけで。
スーパーマンが突然現れて救ってくれるわけではない。
元々、「多くを望むな」というかんじか毛囊 角質化。
昨夜、40年前に建てられたアパート住民たちの72時間を撮影した番組を観た。
造船業が盛んだった大阪市住之江区。
(あいも変わらずNHKテレビ)
前から見たかった内容。
人は余計な贅肉を削ぎ落とされると、シンプルな生活になる。
断捨離やミニマリストとか、そういう時代の流行りに乗らされたような生き方がもてはやされていると感じる。
いかにも自分で考え選んだかのような錯覚に囚われている場合もあるが、いっそ選択肢がないほうが、なんだか純粋のように感じる。
有無を言わさず。
何十年も同じアパートに住む人々が助け合って暮らしていた。
朝から集会所でお酒を飲む60代男性。
明るい、綺麗な歯をした人だった。
(入れ歯かも知れないが。綺麗すぎる場合は、義歯はよくあること)
九州?だったかの7人?きょうだいの末っ子で中学2年の時に父親を(病気で?)亡くしたそうだ。
酒飲みで博打好きの、どうしようもない父親だったらしい。
お母さん、苦労しただろう去暗瘡印。
わたしより歳下の男性なので、わたしは当時高校生か。
わたしは同じ時代を生きているにもかかわらず、全く接点はなかった。
法制度や福祉も同じ時代。
時代が違うからわからない、とは言えない。
そう言ってしまえば、今この瞬間に同じ時間を生きている人とも、接点がない人がほとんど。
時間は同じだが、場所が違う。
あるいは出没時間が少しズレて、平日と休日とで違うだけで、顔を合わせないこともある。
(例:通勤、通学の人々)
時間を問わないインターネットで知るぐらいではあるが、このインターネットはまたクセモノだ。
未成年が悪い大人に引っ掛かって被害者になるかのように、高齢者がこれまた詐欺師に引っ掛かるのも、手段は電話だったりするが、今はスマホも参入しているかも知れない。
自分は大丈夫だと思い込んでいる人ほど、危険性が高いらしい。
インターネットでしっかり知り合うのは、わたしの場合、30年間に2〜4人ぐらいなので、詐欺師から見ると騙す対象人数が少な過ぎて話にならない。
時間と人数の効率が悪すぎる。
しかも、知り合ったのは詐欺師だった経験はなく、皆さん、善良な市民。
それと、不思議なのは、、、
わたしの場合、時代遅れの環境にいたため、昔はお見合い結婚だったが、娘たちは(親や親戚、職場関係者など他者の尽力による)お見合いではなく、自力結婚。
さらに、その相手や背景も似たり寄ったり。
お見合い結婚でもないのに、環境の変化はほぼないところに驚く。
類は友を呼ぶのだろう。
大きな摩擦もなく、無事に行っている水原共生。
も捉われているのは不毛
あることを別SNSの日記に書いていると、またまた不意に過去の嫌な感情がぶり返してきた。
いったいいつまで、この気持ちと闘わなければならないのか。
仏教の教えでは、感情や気持ちは無くならないものらしい孔聖堂中學banding。
だから、避けられない、対峙しなければならないことであり、誤魔化せない事実に、いつまでも捉われているのは不毛、無駄だそうな。
日にち薬というものがあり、時間が解決してくれることはよくある話。
しかし、嫌な感情が湧き起こったシーンが鮮明に蘇った。
一つだけでなく、いくつものシーン。
目に焼きついている。
音も。
これは一種のトラウマかも知れない。
いまだに不意に苦しめられる瞬間に襲われるということは、自分が自覚しているより、結構、傷は深かったようだ抽濕機推介。
怪我なら出血したり痛みを伴うが、こころはわかりにくい。
反応は遅れてやって来る。
わたしだけかも知れないが。
かなり無神経で図太くタフな部類のわたしでさえ、こうなんだから、繊細なガラスの神経を持つ人だと、傷はもっともっと深刻だろう。
想像するだけで、痛々しい。
もう2度と、同じ気持ちを味わいたくない。
今日の記事は100%セルフカウンセリングになってしまった三菱抽濕機好唔好。