粒のようなもので

学歴と学力は違う。
博士号を取得しているある人が、若き日のわたしに言った。

「博士号は、僕にとっては足の裏に引っ付いているご飯粒のようなものです。
取らないと気になるだけです」

なるほど、言い得て妙。
博士号を取っていない、勉強嫌いの実践型タイプは、学者ではない租會議室尖沙咀
学者さんならやはり何か取らないと、、、と野次馬のわたしは思うのだが、学者さんではないのなら、別に必ずしも必要ない、、、と、「屋外のマスク着用は必ずしも必要ではない(岸田発言)」のような、あいまいなことも言ってみる。

ちなみに、わたしのピーク時の学力は中学3年生の時の、中学3年ぐらいの学力(そのまま)。
(他の生徒と比べて学年何位とかではなく、自分の今までの人生のなかで)
中学校の国語の授業は、新聞の「天声人語」を毎日、教材にしていた。
先生が課題にあげた漢字を同級生がさらさら書いているのを、カッコいい?と、うっとり見ていた。

さて、今のわたしの学力は、小学生の孫にぐんぐん追い越されている感がある。
「日本語で遊ぼう」シリーズの「ことわざカルタ」などは、完敗で、いまや5歳の3番目孫にも負けかけている。
「ばあちゃん、起きてる?」と言われる。
「あ、ごめん、寝てたわ」なら、サンドイッチマンのネタになる酒店式住宅

トランプのゲームで、「大貧民」という種目がある。
これは若い頃、よくやった。
最近、うちに数家族が集まると、手が空いているメンバーは、このゲームをする。
小学生孫たちは、メキメキ腕を上げている。
ゲームのルールを覚えたての頃は、やり方がよくわかっていなかったが、今や、ガンガン行く。
これがまた、性格がよく出る。
良いカードを大事に残して最後まで使い切れずに負けたり、ここぞという時に勝負に出たり。
カードの使い方が、上孫と次女が似ている。
最後まで持っておくタイプ。
また熟練すると、違う傾向の使い方をするようになることだろう。
あ、わたしは、あっさり負ける派。
最初から配られたカードが悪過ぎる、、、と、自己擁護。
知恵と熟考と機転と負けん気がない代わり、運だけで行っているのは、やはり性格が現れているように思う。
今や、メンバー補充要員的な役割で、頭を使わず場当たり。
アタマが緩くなるはずだ。
だが、勝つ時もあるので、面白いものだ。

学力と社会力も違うし、商才も違う。
知識は助けになることがある。
だが、邪魔になることはないにしても、先入観や決めつけは良くない。
柔軟性。
しなやかさと、したたかさ。
両方あれば良いのだが、これがまた両立は難しい大廈洗水缸