創設した別ブログが

書いて封印しているものもある。
実は隠し子のように、若かりし日に創設した別ブログがなんと、あと2つもある。
ほぼほぼ閲覧数は限りなくゼロに近い幽霊ブログなのだが。(誇張ではなく)
わたしがこの世を去る前に、指が動かなくなる前に、目が見えなくなる前に、消滅させておかねば除甲醛公司
ネット宇宙のゴミは早めに撤去すべきなのだが、、、。
パスワード的なものを探すのが面倒。
そのうち、そのうち、と、放置したまま。
ひょっとすると、また書き溜め用にキープしておくかも知れない。(が、時間的に、それはない)

何しろ、脳がおしゃべりなのだ。
ピーチクパーチクうるさくてしかたない。
これは次から次へと脳に浮かんだまま脳外に出してお掃除しないと、脳がパンクしてしまう。
ゴミ屋敷化してしまう。
だが、ゴミは行政の決めた時間、場所に出さないと、不法投棄は罪になる。
そもそもわたしは、そんなヘイトスピーチ的なものは、アウトプットしない常識ある社会人である。
というか、自分自身が不快になる。
暴力は嫌い。
アントニオ猪木は良い人だったとしても、わたしはプロレスやボクシングは好きになれない。
女の子的なものが好き。
お花だとか、お人形だとか、布、服、光り物、調度品、工芸品、綺麗な優美なものが好き。
美術(建造物、絵画含む)、芸術(音楽、ダンス含む)、映画も好き。
キレのある斬新なもの(テーマ、題材、切り口、空間、建造物)も刺激を受け地渠る。
最近は、「自然」も好き。「大自然」なら大感動。
美しい自然の中に身を投じると幸福感に満たされる。
なので、プロレスとかは無縁なのだ。

とかとか、などなど、、、読む人のことなど全く眼中にないことを延々と脳内から流れるままに綴っている。
ではあるものの、自分が気持ちいいものだけを摘んでアウトプットしている。
とは言え、その日の気分、ノリによっては、マイナス感情、鬱憤を吐き出して、ストレスを発散している。
何かを通して、発散するプロセスは、プロセスやボクシングファンと共通しているかも知れない。

わたしの場合、脳内にある「不安事項」は、脳内にだけ留めることが多い。
書きたくなるような「不安事項」は、書く場合もある。
選択には法則やルールはなく、気分次第。
常に自分を冷静に見つめている自分と同時進行して生きている。
子供の時からである。

言語を自覚したのは、わたしが幼稚園ぐらいの時。
思ったことが、音や文字として現れずに脳内にどんどん流れるように出現する。
その時は、脳内だとは気づかず、知らず、もわっとした空中のような空気のようなものから現れた。
この感覚は、2番目孫が4歳ぐらい?の頃に、わたしに話してくれたことと似ている。
彼は、「K(自分のこと=僕)は、思っているけど言ってないだけ」と拙い言葉で口にしたが、わたしは彼の感覚を理解した。
言語とこうやって共に歩むんだ、成長していくのだ。
思うこと、考えること、感じること、それをアウトプットする人と、しない人、また、したくない人、出来ない人がいる。
アウトプットの方法も、いろんな手段、方法がある。
表情、動作、所作、行動。
行動にも、その場の瞬間的な行動と、中期、長期的な行動がある。
生理的、抑圧的、能動的、自発的、強制的、思考的、計画的、、、
暴力や人助け、芸術、、、幅広い。
また、意識した場合と無意識の場合がある服務式公寓